津波のまれ奇跡の生還 宮城・南三陸町長引退へ 刑事告訴時の心境は

2025/11/02 17:02 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 東日本大震災で津波にのまれながら奇跡的に生還した宮城県南三陸町の佐藤仁町長(73)が5日の任期満了で引退する。震災後は約14年半にわたって復興の陣頭指揮を執った。10月に取材に応じ、町の防災対策庁舎の保存を決めた経緯や、刑事告訴された当時の心境を語った。

 佐藤氏の引退で岩手、宮城、福島3県の沿岸部と福島第1原発周辺の計42市町村のうち、震災当時からの首長は宮城県気仙沼市、福島県相馬市と川内村の3市村だけとなる。

 佐藤氏は合併に伴う2005年の町長選で初当選。11年3月の震災は防災対策庁舎で被災した。屋上に避難して津波の濁流をかぶったが、非常階段の手すりにしがみついて助かった。

 周囲の水は引かず、屋上で夜を明かした。ずぶぬれの体に吹き付ける風は冷たく、職員が持っていたライターの火で暖を取り「生き残った我々で町を再建しなければ」と話し合った。

 町では災害関連死を含め620人が犠牲になり、211人が行方不明となった。防災対策庁舎では佐藤氏ら10人が一命を取り留めたが、43人が亡くなり、佐藤氏は激しい批判にさらされた。

 赤茶色の鉄の骨組みがむき出しになった庁舎は、遺族や町民の間で保存か解体か意見が割れた。佐藤氏の方針も変遷した。当初は保存すべきだと明言したが、震災半年後には「被害を思い出させる負の遺産だ」との遺族感情に配慮して解体の方針を表明した。

 15年、県予算での保存の是非を問う意見公募で、町民の約6割が賛成した。佐藤氏は「町民の総意と言える」と判断し、保存の方針を決めた。

 遺族に理解を求めると「町の子どもたちが教訓とし、命を守ることにつながるなら」との願いを託された。解体を望む声は根強くあったが「あそこで被災した自分が決めるしかない」と考え、24年に町有化した。周辺は公園として整備され、かつて解体を望んだ遺族が草刈りをしてくれる。「残してよかった」と思う。

 震災翌年には、適切な避難指示をしなかったとして遺族から業務上過失致死容疑で刑事告訴された。佐藤氏は「我が子を亡くしたんだから、告訴する思いは理解できた」と振り返る。

 のちに不起訴となったが、県警の聴取を受けた。担当した捜査員は、壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市沿岸部の長面(ながつら)地区の出身だった。聴取が終わると、その捜査員は津波で両親を亡くしたことを打ち明けた。多くの人が肉親や同僚を失っていた。「そうだよな、そうだよな」とうなずきながら思いを語り合ったという。

 町全体の高台移転を決め、17年に復興住宅が完成した。エプロンを着けた女性が歩く姿を見た時、工事の作業員やボランティアが行き交った町が日常を取り戻したと感じた。「ああ、復興したな」と思いをかみしめた。

 今年9月の町議会では「町を再建するという私の使命は全て終えた」と述べた。後任の町長は、無投票で初当選した町の前総務課長の千葉啓(ひらく)氏(59)が務める。【竹田直人、百武信幸】

毎日新聞

社会

社会一覧>

注目の情報