同性愛者が「親になりたい」はエゴなのか。一度は諦めた子育て、ゲイ男性が父親になった理由とは…

2026/02/12 14:41 

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 「ゲイの自分が子どもを持つことなんて、許されないとずっと思い込んでいた。でも今は、娘の笑顔を見るだけで、ただただ毎日が幸せなんですよ」。 
 7歳になる娘の成長を楽しげに明かしてくれたのは、浜松市出身の金谷勇歩さん(47)。「ゲイとして生きるなら、子どもは持てない」と自らに言い聞かせ、封印してきた本音に気づいたのは、28歳で直面した死の淵(ふち)でのことだった。それから約10年。同じ願いを抱く女性同士のカップルと出会い、1年半にわたる対話を積み重ねた末、体外受精で娘を授かった。
 日本の社会制度において「想定外」とされてきた同性カップルによる子育て。SNSでは、エゴ(利己的)という批判も散見されるなど世間の風当たりは強い。一方で、わが子の日常を静かに守り続けてきた金谷さんは「法制度の"壁”もあるが、最大限の養育環境を整えてきた」と理解を求める。
 子どもが健やかに育つために、親として本当に大切なこととは何だろうかー。金谷さんのこれまでの人生を取材し、そのヒントを探った。

■「ゲイ=異常性愛」と記された辞書、未来に絶望した小学5年生
 浜松市で生まれ育った金谷さんが自らの性的指向に違和感を抱いたのは、今から40年ほど前の小学校低学年の頃だった。当時の性的少数者(LGBTQなど)を取り巻く環境は、今とは大きく異なっていた。
 当時の人気テレビ番組のキャラクター「保毛田保毛男(ほもおだほもお)」に代表されるような、ゲイを「笑いの対象」とする風潮が根強く、その揶揄(やゆ)は教室にまで溢(あふ)れていた。同級生の間では「ホモ」という蔑称が日常的に飛び交い、無邪気なモノマネと冷笑が渦巻く光景を前に、金谷さんは「本心を隠して生きていくしかない」と幼心に悟ったという。
 「教室の窓から飛び降りれば、楽になれるのかな」。小学5年生の時、金谷さんは毎日、そんな思いに駆られながら窓の外を眺めて過ごしていた。地元の図書館で開いた辞書。「ゲイ」の項目を引くと、そこには「異常性愛」という冷徹な文字が並んでいた。
 1995年以前の日本では、同性愛が精神疾患の一つに分類されていた。その時代の空気感と、誰にも言えない孤独感は、少年に「絶望的な未来」を突きつけていた。

■セクシュアリティの受容と、死の淵で見つけた本音

 暗闇の中にいた少年時代を経て、大きな転機となったのは高校卒業を控えた18歳の頃だった。米国留学で日本とは異なる多様な価値観に触れ、信頼を寄せる親友へのカミングアウトを通じて「ありのままの自分」が受け入れられる経験を重ねていった。
 20歳のときには、地元の浜松で両親にも打ち明けた。母は葛藤の末、「あなたが誰を好きになろうと、愛する息子に変わりはない」と理解を示してくれた。こうした経験を経る中で、金谷さんは自らのセクシュアリティを少しずつ肯定的に捉えられるようになっていった。
 自分らしく生きる道を見つけた―。それでも、心の奥底にふさいでいた感情がまだ残っていた。そのことに気付かされたのは、28歳で大病を患い入院した時の出来事だった。
    死を意識する中、病床で記した「死ぬまでにやりたい10のこと」。その一番上に綴(つづ)られたのは、「子どもを授かり、家族をつくる」という文字だった。ゲイとして生きていく覚悟の裏で、「自分には叶えられないもの」として封印し続けていた本音が、死の淵(ふち)で呼び起こされた瞬間だった。

■1年半にわたる対話の末、女性カップルとの間に待望の「娘」誕生
 それから約10年。金谷さんは「子どもが欲しい」という共通の願いを持つ女性カップルと出会う。お互いの希望やリスクについて1年半にわたる対話を重ねた末、2018年、待望の娘が誕生した。
 性的少数者が子どもを持つことに対し、SNSなどでは「親のエゴではないか」という厳しい視線も向けられる。
 7歳になる娘を持つ一人の父親として、金谷さんはその指摘をどう受け止めているのか。
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