20年生きられる確証は無かった…結合双生児の姉妹と母親が分離手術から成人までを振り返る「振…

2025/10/23 07:50 

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母に抱かれた生まれたばかりの長嶺姉妹(@nagamine.shimaiより)

 双子のお腹がくっついた状態、結合双生児で生まれてきたという栄さんと光さん。生後2ヵ月ごろに分離手術に成功し、現在は低身長モデルとして活動しているが、姉妹が生まれた際、結合双生児が分離手術に成功しても成人まで生存するケースは非常にまれなことだと言われていたという。そんな姉妹が投稿した生後まもないお腹がくっついた状態の頃から20歳を記念する振袖モデルを務めるまでをまとめた投稿が話題に。姉妹とそのお母さんに、結合双生児と知った当時の心境や、低身長モデルとして夢を追うきっかけについて話を聞いた。

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■姉妹の分離手術と父の命日が同じ偶然「3月7日は家族の繋がりを感じる特別な一日」

――姉妹が生まれたとき、結合双生児でお腹がくっついた状態、内臓は肝臓を共有していたと拝見しましたが、当時の状況について教えてください。

【長嶺姉妹母】事情があって病院に行くのが遅くなってしまったのですが、妊娠したと思って初めて産婦人科へ行ったのが妊娠5ヵ月目に入っていた時期でした。その初診のときから胸からお腹の下までべったりくっついているのがエコー検査で見えて、結合双生児と言われました。なので、医師は初めから分離手術のことを考えていたと思います。結合した状態で、生まれてすぐに具合が悪くなっても、その頃住んでいた沖縄では赤ちゃんの分離をできる病院がない、生まれてすぐにヘリコプターで本州へ運ぶような事態になるより、前もって本州で出産した方が良いと言われ、検診3、4回目のときに産むのだったら分離手術できるところへ入院しなければならないと言われました。

――その後、2001年1月10日に2人は産まれ、「手術に耐えられる体力がついた」と判断されてから、同年3月7日に分離手術が行われました。姉妹のお2人は自分たちが結合双生児であったことは、いつ頃お知りになったのでしょうか?

【長嶺姉妹】はっきりと、いつというのはなかったのですが、物心ついたときにはもう知っていた感じでした。そこまですごいこと、大変なことだとは思ってなくて、生まれ方は少し変わっているけど自分たちは普通だと思っていました(笑)。むしろ大人になった今の方が、当時の写真を見返してお腹がくっついているのを見ると信じられないなと感じるくらいです。

――お腹がくっついた状態で生まれてきたこと、結合双生児が分離手術に成功しても成人まで生存するケースは非常にまれだと言われていたことを聞いて、どのようなご心境でしたか?

【長嶺姉妹】一般的に結合双生児は20歳まで生きられるかわからないという話を聞いたときはかなり衝撃的でした。私たちとしてはむしろ、結合双生児として生まれてきたことよりも衝撃だったと思います。正直生まれるときは親の判断、決断でした。でも生まれた後は、20歳まで生きられるかどうかは、もうほかでもない自分たちの人生の話なので『え? 私達が?」と思いました。物心ついたときには結合双生児である事実はお腹に残った傷くらいだったのもあり、健康にごく普通の生活が送れていたので、『現実の話なの?』とかなりギャップを感じました。

――お2人の分離手術が行われた日も3月7日、8年前に亡くなられたお父さまの命日も3月7日だと拝見しました。3月7日は、生と死を考えさせられる日とコメントされていますが、毎年3月7日はどのように過ごされているのでしょうか?

【長嶺姉妹】3月7日は決まった行事などは特になく、普通の日と同じように過ごすのですが、3月7日近辺になると家族内で『お父さんが夢に出てきた』や、『私たちの子供の頃の夢を見た!』と母が言ってくるなど、自然と父や私たちの手術の話題になることが多いです。

 まさか、私達の人生にとって大きな出来事が365分の1の確率で重なると思わなかったので、純粋にびっくりしました。私たちが一人ひとりに分かれて自由になった日にお父さんは亡くなっていったということが不思議で、3月7日は私たちにとっては偶然ではない家族の繋がりを感じる特別な一日です。

■低身長で諦めていたモデルの夢、20歳を記念する振袖モデルで夢が現実に

――現在は低身長モデルとして活動されていますが、モデルを目指されたきっかけについて教えてください。

【長嶺姉妹】私たちは物心がついたときから可愛い洋服を着るのが好きだったので将来の夢はモデルになることでした。ですが、結合双生児として生まれてきて、未熟児でもあり、側湾症も患っています。そのせいか思うように背が伸びず、憧れてはいましたが、諦めていました。ですが、テレビ取材を受けた際に夢を聞かれ、子供の頃から夢だったモデルについてもう一度調べたところ、低身長モデルというジャンルがあると知りました。

――取材がきっかけになったんですね。

【長嶺姉妹】低身長モデルを知り、背が低いからと諦めなくていいのではと思い、「モデルになることが夢です」と言ったところ、偶然番組を見てくれていた振袖会社の社長さんが振袖モデルをやらないかと声をかけてくださいました。不慣れながら他のモデルさんと一緒に撮影に参加させていただいたらとても楽しくて、モデルを目指そうと思うきっかけになりました。

――「20歳=振袖」ということで、振袖モデル撮影は感慨深いものもあったのではないでしょうか? 

【長嶺姉妹】結合双生児で20歳まで生きるのは難しいと言われていた話を思い出し、分離手術をしてくれた担当医の先生や、手術に携わってくださった方々、育ててくれた両親など、私たちを支えてくれた周りの方々に改めて感謝の気持ちが込み上げてきました。私たちが無事に20歳を迎えられたこと、振袖を着られたことは本当に奇跡なんだとあらためて思い、とても感慨深かったです。ですが、それは私たちだけに限らず皆さんに言えることで、20歳で振袖を着る日本の文化は素敵だなと感じました。祖父母に振袖の写真を見せたらとても喜んでくれて、会う度に部屋に飾っていると自慢してくれます(笑)。

――娘さんたちが振袖モデルを務めている姿を見たお母さまはどのようなご心境でしたか?

【長嶺姉妹母】成人式の日はお金がなくて、振袖を着させてあげることができませんでした。それから頑張ってお金を貯めて、20歳の5月にやっとレンタル振袖を着させてあげることができ、記念写真も撮れて、遅れてですが成人を無事に迎えられたことを実感しとても嬉しく思いました。ただ、そのときは2人分のレンタル振袖代を頑張ってなんとか捻出したので、本人たちに気に入った着物を選ばせることができず、一番お得な料金のレンタル着物だったので、母としては心が痛かったです。それが、振袖モデルの際は、一着100万もする素晴らしい着物を着させてもらったということで、成人したご褒美のような気がしてとても良い記念になりました。その写真は宝物です。

■夢は低身長モデルのジャンル確立「特殊な生まれ方でも夢を叶えられることを証明していきたい」

――自分たちが結合双生児であったことをSNSで発信するのは、珍しさから好奇の目で見られることもあり、勇気のいることだったと想像します。なぜSNSでの発信を始められたのでしょうか?

【長嶺姉妹】私たちはSNSに興味がなく、インスタの個人のアカウントは鍵をかけて見る専用のものしか持ってなかったほどなのですが、テレビの取材依頼の際にスタッフの方が熱心に私たちを探し出してくれたこと、ウィキペディアにすでに私たちのことが細かく書かれていたという2点が、自分たちでもSNSを始めてみようかなと思う大きなきっかけになりました。普通に過ごしていても、知らない間に記事になっていたりしたので、それなら自分たちの言葉でも伝えてみよう、またモデルの夢を叶える過程を載せることもできると思い、SNSを始めました。まだまだこれからですが、2人でもっと素敵な投稿をたくさんしていって、見てくれた方に応援してもらえるようなアカウントにしていきたいです!

――今後のお2人の夢や目標について教えてください。

【長嶺姉妹】自分らしさや多様性が認められてきている中で、低身長はまだその魅力が出しきれていないと思います。低身長はとても可愛い個性だと思っているので、私たちの夢は低身長の魅力を伝えていき、モデルとしてジャンルを確立していくことです。どんな風に生まれてきても、それは個性ですし、素敵で尊重されるものだということを伝えられる存在になりたいです。私たちのように特殊な生まれ方でも夢を追える、叶えられることを証明していけるように、これからどんどん国内外のショーなどにも参加していくことが目標です!


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